2008年12月28日

豊かさ

 
必死の形相になってやっと到達できる豊かさは
本当の豊かさとは程遠い


2008年06月25日
【関連する記事】
posted by 灰色ネコ at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 扉集◇過去へ遡って随時更新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

ネット

 
ネットを考えてしまうことが続く・・・。

数日前はmixiでないゲームコミュのフレンドさんから
「死ね死ね、自殺しろ自殺しろ」系の嫌がらせメールが来た
という相談を受けた。
これは、差出人がおそらく子供(小学生?)というので
大人としてどう対処すべきか、という問題。

アクセス禁止にするのは簡単だけど
そこで終われるものなのかどうか・・・という話。
秋葉原事件を思い出したのは事実。


そして昨日、とあるマイミクさんがプロフィール欄を書き換え
「I don't wanna die.」
「I hate myself. I wanna die.」・・・と。
二日前あたりから突然(に見えた)変調を来たし
自罰的な日記をUPしたりハンドルを変えたり・・・。
私はコメントはせず最終的にメッセージを送ったのだけど
そのあとでTOPページの変化に気づいた。
昨夜になって落ち着いたようで今はホッとしている。

ここでも秋葉原事件を思い出した。

「I wanna die.」と書きたい気持ちはわかる
・・・ような気がする。
しかしそれは書いても無駄なことだ。
無駄だと本人もわかっているのではないかと思う。
それでも書かずにはいられないのか・・・。

自分はなんのためにネットをしているのだろうと思ってしまう。

2008年06月25日




posted by 灰色ネコ at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月28日

いのち

 
「雑種だから治療はいいです」と答えた飼い主に
獣医師が怒りを表明している。
http://www.j-cast.com/tv/2008/06/15021762.html
私は怒りは感じなかった。
雑種をよく養ったと飼い主にねぎらいの言葉をかけたい。

日本に生を受け、生息している犬猫の数は
犬猫を飼いたいと思う人が飼いたがる総数よりはるかに多い。
そこに痛みを感じ、道端で出会ってしまった犬猫を仕方なく
できる範囲で引き受けているという意識の飼い主は
どこまで犬猫の命に責任を持たねばならぬのか。

病気で死ぬのは仕方がない。それが寿命なのだ。
治療できるからという理由で寿命を延ばすのは人類だけでいい。
その人間だって本当に幸福なのか・・・。疑問だ。

2008年06月19日

posted by 灰色ネコ at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

義務教育時代のネット

 
実はmixi以外にも日記を書く場所を持っているのだけど
そのうちのひとつであるゲームサイトは
小中学生ユーザーがうじゃうじゃいる(笑

私自身はほとんど接点はないのだけど
彼らの発言は掲示板やサークル(mixiのコミュニティ)に行けば
見えるわけで・・・。

実際に小中学生が遊ぶ場所に生息してみると
どうしても自分の子供がここにいたらどうか・・・と思ってしまう。

運営サイドがどれほど規制しても
怪しげな出会い系やポイントサイトへの誘導者は出没する。
それはmixiも同じだろうけど。
結局、現実世界での遊園地や公園のような
「子供向けに安全を保障された場所」などネットには存在しない
というのが実情なのだろうと思う。

有害情報と無害情報を分け、フィルタリングすることには
もちろん意義はあるだろうと思う。
しかしそれで十分だと思うべきではない。

ネットには大別して
「情報入手」機能と「コミュニケーション」機能とがある。
フィルタリングでカバーできるのは、前者だけだろう。
しかしネットの危険は後者にも潜む。
その代表例がいわゆる「裏サイト」だろう。


     ◇     ◇     ◇


裏サイトの怖さは、悪い大人が純真無垢な子供達に忍び寄る
という発想の枠外に存する。
裏サイトに悪い大人はいない。未熟な子供達がいるだけだ。
未熟な子供同士が未熟ゆえに傷つけあう・・・。
大人の適度な介在なしの子供同士のコミュニケーション自体が
危険をはらんでいるという証左に他ならない。

大人(親)は、そのことを正面から考えるべきだと思う。
クラスで級友と衝突し、教師の仲介でやっと決着したとか
兄弟喧嘩をして親に引き離された体験を持つ人は多いだろう。
そうした場面で、もし大人の視線や判定が一切なかったら
あるいは放課の終わりを告げるチャイムや
一晩会わずに頭を冷やす機会となる「夜」がなかったら・・・。
子供達は文字通り殺し合うまで突っ走ってしまうのではないか。

そうした痛ましい事件は現実にもう何件か起きている。
ネットでの子供同士のコミュニケーションの本質を見よう。
それは
 ・大人の介在がない
 ・量的規制がない(携帯なら時間的にいつでも可能
  かつ料金プランによっては金額的に負担とならない)
ということではないかと思う。

ネットの怖さは、有害情報に接することだけにあるのではない。
ネットを通じた子供のコミュニケーションを
大人がどうコントロールできるか、が問題なのだ。


     ◇     ◇     ◇


ネットを介した子供のコミュニケーションは
以下のパターンに分類でき、それぞれに危険も考えられる。

 @リアルで知っている人物とネット上で交流する
  → リアルでの仲たがいがネットで増幅する現象
    リアルとシンクロするネットいじめ

 Aネットで出会った人物とネット上で交流する
  → 個人情報の流出、詐欺被害など
    自殺の誘いや宗教勧誘など有害情報に接する

 Bネットで出会った人物とリアルで交流する
  → @、Aに加え、性被害など

こうした様々な危険にそれぞれ対応策を考えられない限り
親が子供にネット環境を与えるのは無責任ですらある、と思う。

公のフィルタリング強化は歓迎する。
しかし子供の保護を機械任せにしておけば済むということは
絶対にない。
ネットがなければ、親は子供が誰と遊び、文通や電話をし
どんな本や雑誌を好んで読んでいるかを
電話の取次ぎや郵便物の受け取りや子供の部屋を時折覗くことなどで
ほぼ物理的にチェックできた。

ネット環境を子供に与えることは
そうしたチェック機能を一切外すことを意味する。
現代の親には、そこまでの自覚が必要だと思う・・・。


     ◇     ◇     ◇


もちろん、子供にはいつかネット環境が必要になる。
子供を信頼してパソコンを買い与え
携帯電話を渡す日が来る。

自分自身のこととして考えると、ポイントは二つだろうと思う。

まずひとつめは、子供のネットスキルを知り、教育すること。
自分の子がネットにどんな期待をし
ネットの怖さをどの程度自覚しているか
これらを会話の中で知り、必要に応じて教育や約束をし
それに応じて徐々にネット環境を開放していくような方式が
望ましいと思っている。

※この日記の元となったマイミクさんの日記に
 ネット機能(モバイル)なしの携帯(電話やGPSのみ)
 という話がありましたが
 そういう携帯は私も子供向けにあっていいと思います。


ふたつめは、子供とコミュニケーションを取ること。
これが案外難しい・・・(苦笑
ちょうど思春期に差し掛かるわけでもあるし。
しかしネット環境自体はツールに過ぎないわけで
なにか問題が起こる時というのは、やはり子供自身の中に
問題の根があると考えるしかない。
いじめたりいじめられたり、売買春や薬物に近づいたり
自殺方法や犯罪記録に興味を持ったり・・・。
子供がそうした方向に進んだ時、それを親が察知できるかどうか
結局はそのあたりが鍵になりそうな気がする。

我が子がなにに関心を持ち、悩んでいるのか、知っておきたい。
知ることのできるような(会話可能な)家庭環境を維持できるか
どうかが、重要なのだろうと思う。

ネット環境がノーチェックだからこそ
その他の部分で子供を見守ろうとする親側の姿勢、眼差しが
おそらく重要度を増すのだ。


     ◇     ◇     ◇


現在我が家では
中1息子には小4娘と共用のフィルター付きのパソコンを与え
携帯電話は渡していない。
携帯が欲しいという交渉も受けていない。
(娘が去年あたりに携帯電話を欲しがっていたが
 まだ早いと答えたらそこで終わった)

私の感覚では、親子での話し合い・・・交渉は
かなり有効だという気がする。
例えば子供が携帯を欲しがったら、なにに使いたいのか訊き
またその過程で、ネットの危険を教えたり悟らせたりする
機会もあるだろうと思う。

さらには、たとえば息子の親友という同級生男子の家庭では
ゲーム機を買い与えるのがかなり遅かった。
各家によって教育方針は異なるという当然のことも
子供たちはすでに理解している。

そのツールがなければ仲間に入れない、ということは
子供の世界ではあまりないのが現実ではないかと思う。
仲間に入れないのは本人の資質の問題であることが多い。

目の前の我が子ときちんと向き合うことが
最後まで答えなのではないかという気がする・・・。


2008年06月18日
posted by 灰色ネコ at 06:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇親として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月25日

その頃ボクは秋葉原付近にいた

 
例の事件以来
犯罪予告をネットに書き込む件数が増えているらしい。
(私が統計を取っているわけではなく
 あくまでニュースでそう聞いたという話)

模倣犯が増えるだろうという予測もあったから
その一環と捉えればいいのかもしれないが。


秋葉原事件の犯人は、予告しても誰も止めてくれなかった
旨を述べているらしいのだから
書き込まれた予告にはどんどん反応すればよいと思う。

書き込む側も、たぶんそれを期待している・・・。

それがたとえ手錠の冷ややかさであったり
経歴に逮捕補導歴を付け加えることであってもいいから
自分が世界からまだ無視されていないことを確認したい
という願望なのではないかと思えてしまう。


「殺す」と言えばネガティヴな反応(通報など)があるが
「殺す」とまで言わなければ反応されないとしたら
それはどういう地獄なのだろう・・・。

自由恋愛の世界に勝者と敗者がいるように
ネットの世界にも勝者と敗者は必然的に生まれる。
言いたい放題書いて喝采を受ける人と
書いても書いても反応の返ってこない人・・・。
(実際には
 喝采を受けるような人気者が言いたい放題書いている
 ということはないのだろうと思うけど)

なぜなら「万人が選択する自由を有する」から。
自由とは本質的に残酷かつ過酷な流儀である。


「殺す」そのものではないけれども
「殺す」と同程度に切羽詰った発言であれば
自分は耳を傾けたいと思う人も中にはいるだろう。

しかし
そうして耳を傾ける行為が有意義であるとも限らない。
なぜなら誰もが選択の自由を有している、から。


まぁ・・・
↑のようなことを近頃取り留めなく考えているわけだけど。

ネットの世界が現実の世界と異なっている部分なんて
実は数えるほど少なく、些細なのではないかとも思った。

現実の世界に幽霊がいるように
ネットの辻にも幽霊は佇んでいる・・・。

2008年06月16日

 
posted by 灰色ネコ at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月28日

逃げ水

 
愛情とは逃げ水のようなものだ
と思う。
それは蜃気楼によく似ている。

あると思えばあり
ないと思えばない。

だからこそ
自分の内側から湧き出させる努力が必要なのだ。
愛情に飢えているひとほど
惜しみなく
見返りなく
他者を愛するのがよい。

愛することによってのみ
愛への飢えは満たされ得る。
それ以外に飢えを満たす方法はない。

愛は求めるものではなく
与えるものの名である。

愛されたいと望んだ瞬間
その愛は死ぬ。

2008年06月03日
posted by 灰色ネコ at 05:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月24日

ヒューマニティ



自然とは非人間的であるから
人間的なものは不自然でもある


2008年06月03日
posted by 灰色ネコ at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 扉集◇現在進行形で随時更新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月17日

相克



すべての親は子育ての過程で被害者意識を持ち
すべての子供は親に責任を転嫁する


2008年06月02日


posted by 灰色ネコ at 04:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 扉集◇現在進行形で随時更新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月09日

死後の公開

 
不幸にも事件に巻き込まれ若くして亡くなった被害者の
生前の作品や手紙などが遺族の手によって公表される件。

遺族が公表しているという部分がなんとも・・・。

そんなこと本人は望んでないんじゃ? と感じる人もいる
かもしれませんが、しかし
本人が生前どう思っていたかは結局誰にもわからないわけで
だからこそ遺族なんですよね。
この世で最も故人に近しかったはずの遺族が
本人は公開を望んでいた(もしくは喜ぶ?)はずと思うのなら
それはそのまま受け入れるしかないというか・・・。

著名人の場合、病死などの場合は大抵
未発表原稿や手紙類は処分するよう家族に依頼するのですが
これまた大抵の場合それは守られませんね。
死者にはなにも言えない・・・。

逆に遺族からすれば、赤の他人が勝手に自分に引き寄せ
故人の心中をあれこれ想像したり、その挙句に同情するのは
実に余計なお世話であって越権行為と受け取れるでしょう。
大抵の遺族は家族の死を死者本人のものでも社会のものでもなく
遺族である自分達の占有物だと感じているのです。

今生きている人にとって大事なのは、だから
自分が死んだら処分してくれ、と家族に頼むことではなく
自分の愛する人が死に、自分が遺族となった時に
自分はどうするべきか・・・と考えることだと思いました。


遺族が故人の持ち物等を公開するのは私の理解では
それが遺族の心を慰めることに幾ばくか寄与するからです。
最初から死者のためじゃないんですよね。
遺族、つまり生きているもののため・・・。

死者は死んでからも生きている遺族や社会のため
とことん利用されるわけです。
「そんなふうに泣いてたら天国の○○さんも心配してるよ」
というのも同じ。

死者は死んでからも生者の都合で
心配したり見守ったり喜んだり泣いたり悶絶したり・・・
草葉の陰で案外忙しいんですよね。
お疲れ様なことだと思います。

2008年05月29日
posted by 灰色ネコ at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月29日

「仲の良い家族」

 
家族とは敵の名であり
家庭とは戦場の別名である

2008年05月24日
posted by 灰色ネコ at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 扉集◇現在進行形で随時更新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

悲鳴

 
ひとは
苦しいから悲鳴をあげるのであって
助けて欲しいからあげるわけではない

病人や怪我人が
助けてくれと叫ぶ時
それは必ずしも
助けてくれと要求しているわけではなくて
単に自分がそれだけ苦しいのだと
表現しているにすぎないこともある

なぜなら苦しい時
人間は声を出さずには置かない稀有な生物だから
(TVの自然番組を見ていると
 野生動物は殺される場合も
 大抵苦痛の表情は浮かべず
 声も上げずに黙って死んでいく)


私は
苦しむ声を聞いて喜ぶ趣味はないのだ
少しでも自分に
助けになるような手段があれば
別だけれど

なにもできないのに
悲鳴を聞かされるのは
新手の拷問なんじゃないか

そんなことを思う昨今


自分が間違っていることはわかるけれど
どこが間違っているかと問えば
よくわからなくなる

2008年05月23日

posted by 灰色ネコ at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

因果

 
私は親であると同時に子であり
親を見つめる子であり
「親を見つめる子」の視線を感じる親でもあり
そうした親の心境を想像する子でもあり・・・。

たまねぎ式無限回廊(苦笑
目眩・・・。


祖父母は祖父母であるだけでなく
親の親でもある。

現在の親は25年後の自分であり
祖父母は50年後の自分であるという
単純な事実。

2008年05月21日


 
posted by 灰色ネコ at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月25日

背中の教え

 
俗に、子は親の背中を見て育つ
なんてことを言うけれど
それは確かにその通りなんだろうと思う。

子育ては子が成人したり
結婚すれば終わるというものではない・・・。

子は、自分の子へ親がどう対処するかを見て
孫への接し方を学ぶ。
配偶者との関係では婿や嫁との接し方を学びもする。

老いる姿からは人間の老い方を学び
病にあっては病み方を
死に際しては死に方を学ぶ。

片親の死は
残った親を見つめる子にとり
配偶者の見送り方や
その後の人生をどう過ごすかの
学びの場をも提供する。

親はかく教え
子はかく学ぶ。

親がその親へどう対処するかも
子にとっては重要な学びの機会である。

親がその親をどう見ているかを
子は見ている。

見たくないと思っても
目に入らずにはおかない。
それが人生をかけた学びの場である限り。


子は親にとっていつまでも子にすぎないが
親が子にとってはいつまでも親であることを
自覚し続けていられる人は少ない。

それが人間の老いでもある。

こうして子は親の背から無常を学ぶ。

2008年05月21日

 
posted by 灰色ネコ at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇親として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月21日

花が在る



世界には必要なものでも不要なものでもなく
ただ在るものがある


↑先週の扉。
なんかわかりにくいね、我ながら(苦笑

要するに
世の中にあるものを
必要なものと邪魔なものに分けるのは
人間(主体)側の都合にすぎない
ということを言いたかった。

世界に
不要なものがあるのではない
必要なものがあるのでもない
世界にはただ在るものが在るだけであり
ついでに言えば
それを意味づけする私がいる
ということ。

自分にとって邪魔なものがある
とは
邪魔だと感じる自分がいる
というだけにすぎない。

本当は
世界に不要なものなどなにひとつない。
原子レベルで考えてみても
個人の単位で考えてみても。
しかしそれは
世界にひとつだけの花・・・式に
すべてが必要なものであるということを
意味するわけでもない。

要不要を感じるのは主観であって
世界ではない。

私は世界にとって必要でも不要でもない。
ただ在る、というだけのこと。

2008年05月16日


posted by 灰色ネコ at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月01日

怒れない

 
頭で考えるようには
世の中はできていない・・・。

現実の世の中は
不公平で不公正なものだ。

こうした不正義を知った時
私はいつもあまり上手くは怒れずに
ただ苦しくなってしまう。


2008年05月09日

posted by 灰色ネコ at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月30日

プライド

 
私の中には
他者の人権を踏みにじった人間の人権は踏みにじられて当然
とは絶対に認めたくない、という思いがある。

この思いは
別に受刑者、犯罪者の人権に配慮するからではないんだよね。

それはたぶん・・・私自身のプライドなのだ。

人間としての私のプライドが
他者の人権を踏みにじった犯罪者の人権は認める必要はない
という意見に肯くことを、最後までいさぎよしとしない。


もし私が、犯罪者に人権は認めたくない、と考える人間なら
そういう私を私は哀れみこそすれ
決して愛することはできないだろう。

2008年05月09日


 
posted by 灰色ネコ at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇瞑想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月26日

掲示板

 
自サイト用に長い間リンクしていた掲示板は
いろいろ思い出の詰まった掲示板で
中には無論嫌な思い出もあるのだけど

すでに他界してしまった
ガ○リで知り合ったi*ech*n7乙女と
(「乙女」というのが本人の自称だった)
言葉遊び掲示板で親しくした姫・・・
このお二人の書き込みが残っているので
私の生きている間は
地上から消すことはできないと思っている

すでにリンクは外していたのだけど
数ヶ月見ていない間に
サービス会社の都合で
URL移転していたようだ
そのことに気づいたのが丸二日前

移転先にもデータは残っていたが
レイアウト等の設定はすべて初期値に戻っていて
ロボット巡回の宣伝書き込みが幾つも書かれていた


旧掲示板の管理人室から
新掲示板の管理人室に設定をコピーし
余分な宣伝書き込みをすべて削除したら
見覚えのある掲示板に戻って
・・・ホッとした

これって
墓守のようだね・・・(笑


私が生きている間は
あなたの発言は私が保存しておくから
どうか安心しておやすみください


2008年05月07日

 
posted by 灰色ネコ at 03:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇慕・想・乱 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月23日

相克

 
差別をされたらマイノリティの方々は傷つくでしょう。
しかし
マイノリティを差別しない、ことを
マジョリティの義務に数えるのは可能だとしても
マイノリティを傷つけない、ことを
マジョリティに課すことは無理がある。
・・・今考えてるのはそのへん・・・。

傷つきやすいことは美徳でも欠点でもなく
ただ傷つきやすいという、それだけのこと。

傷つきやすい桃が傷つきにくい木の実などと比べ
特別価値があるということはない。

2008年05月01日
posted by 灰色ネコ at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月11日

花壇の花を散らす人

 
いったいどういう心境なんだろうなぁ。
わかるようでわからない。
自分のしたことが夜のTVや新聞の社会面などで報道されると
自分の存在感を認識できる・・・ということかな?

私は
「人を殺してみたかったから(やった)」に通じるような
言葉(心)の通じなさを感じてしまう。

花を千切りたかったからやった
人を殺したかったからやった・・・。
似ている。

(本を)万引きしたかったからやった
というのとはちょっと違うような気がする。
万引きは窃盗であって、それをやれば自己の財産が増える。
花を千切っても自己の財産は増えない。

やはり、一種の自己確認であるような気がする。

無色透明なボク・・・を思い出したな。
酒鬼薔薇だったっけか。

自我が霧のように拡散し、世間の中へ消えていく感覚。
これへの抵抗・・・。


処方箋ということなら
周囲の人間がその人物をちゃんとみてあげることなのだろうけど
なんだろな・・・。
赤ん坊じゃないんだから。
他者からの視線を感じられない人というのは
私の理解では
他者をきちんと見ることのできていない人のはずなのだ。

人間はこんなにうじゃうじゃといるのにね。
不幸な(淋しい)生物なのだな。


通りすがりの花をやたらに散らせる人は
早いうちにきちんと捕まえて
警察の取締りでも新聞報道でも社会的制裁でもなんでもいいから
社会(他者)からの反応を実感させてあげるのがよいと思う。
本人もそれを待っているような気がする。
(その辺は子供の万引きにも通じているかもしれない)


そういえば硫化水素でのあれも増えているのだった。

2008年04月28日
posted by 灰色ネコ at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月10日

一様の恐怖


結局私は、
「○○に好意的なら、その言動はすべて許容」
「○○に否定的なら、その言動はすべて批判」
こういう思考パターンがダメなのだと思う。

○○の部分には個人や国家、政党、企業・・・など
固有名詞が入ってもいいし
スポーツ競技や趣味など一般名詞が入ってもいい。

とにかくそういう、ひとまとめにする発想法が嫌いらしい。
自分がそれをするのも嫌いだし
他者がそういう状態に陥っていると判断できる場面に
遭遇するのも好まない。

普通に(=理性的に)考えるとこれは当たり前の感覚だ。


当たり前なはずだけれど、人間は簡単にそこを踏み外す。
特に政治や恋愛など当人にとって重要な分野であればあるほど。

それを見て面白がれるほど私は余裕を持ってはいない。

基本的に「人間が怖い」感覚があるので
恐怖や嫌悪や反発心がすぐに許容量を超えてしまう。
・・・自身がそこに飲み込まれそうな感覚。


光市の事件でも拉致事件の問題でも
賛否両論が適度に耳や目に入ってくる状態が
私にとっては一番好ましい。

私自身の精神はバランスを保ち、安定できるように思う。

2008年04月25日

posted by 灰色ネコ at 16:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 散文◇世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。